梅はこぼれる 牡丹は崩れる 椿は落ちる 桜は散る
今日は 母親の四十九日
坊さんの 説法が胸にしみる
かくして 浄土にわたった母親の
安堵する日が 春めいた 今日なのかと
今生の別れののちに 来世がある
たましいは 永遠である
大人になるって どういうことか?
とっくに シニアになってるけど・・・
子供のころ 電車の車内で
あんな大人になれたらいいなあ とか
ああいう人に あこがれるなあとか
それは ただの見た目でなく
ふるまいとか しぐさを 見てのこと
自分はそうなっているのか 気をつけたい
長い間この仕事をしている
しかし 問題は多い
こんなことを 人のせいにするなと
言えば すぐに済むことだが
デジタルの補正は その道のプロがやる
だが 何度もやり直せば 粗くなり
出来上がりは 最低
なのに だれが撮ったか知らず 撮影者のせいにする
ほっとけない 久しぶりの クレーム
どんな相手か 顔を見たい
何がいけないのかは こちらはわかっている
デジカメの時代になって パソコンは必需品になった
このふたつの 機器の進化によって
表現や 保存に 思いもよらぬ 恩恵をさずかった
もともと フィルムカメラには 危機感を持っていた
環境問題だ フィルムのごみ問題 現像液の 有毒シアン
ゆえに 早くデジタルに変わらなければと
実は デジカメには黎明期から オモチャとして使っていた
だから あまり違和感なく すんなり移行できた
問題は パソコンだった けっこう悪戦したが
前向きに取り組めば なーるほどと
使えば使うほど 便利なものだと。。。
パソコンがおかしくなり ndows10に変えました
ところが とても使いづらく 悪戦苦闘中
何故なの? なんなの? 技術の進歩って?
ITの世界って いったい何様なの?
こんなことが 許されていいのか
便利だと思っていたのが くつがいされた
どういうことなのか 儲けのためななか
いまだに わらない!
幸せって なんだろう
例えば 隣の人より
たくさんの 貯金があるとか
世間で評判の 服や車を持ってるとか
ライバルを抜かして 昇進したとか
これも幸せなんだが 周りを秤にかけてる
問題は価値観
永遠性 永続性 時空を超えた喜び
本当の幸せは 他の人の感謝がつきもの
小さくてもいい それが大切
自分が喜び 相手も喜ぶ
そういう 相対的なものなのかも
フイルム時代は 夜景の撮影は難しかった
露出値を決めて 安全策として 明るさをずらして
十枚前後 シャッターを切る
けっこう フイルム代と現像費が 馬鹿にならない
上りは ドキドキものだ
しかし今 デジカメのおかげで その苦労はなくなったが
やはり 何度も何度も撮り 適正露出と色を確認する
この努力の作業が パソコンのモニターで 報われるのだ
三十年前に なるだろうか
日光の紅葉写真の 依頼が入り
地元の方と 連絡を取りながら
撮影時期を検討した
紅葉が最高潮になって 天気が青空
リアルタイムで 「今日だ!」
という合図で 現地に向かった
中禅寺湖でボートに 乗り込み
カメラを手にしたとき 異空間に入った
こんな風景は 見たことがない
なんというか 神の世界だ
その後の30年間 日光の風景は 幻になった
カメラ選びは 楽しい でも本当に自分に合っているカメラは 難しい
それの基準として 日本製であれば まず真違いなし
一例を示すと すべてのスペックを網羅した重いカメラが一番だというのは その通り
それをチョイスした人たちが 歩き回って創作意欲をなくし カメラから離れる
出来れば楽しく撮り歩きたいものである
結論として 身にあったカメラをえらぶべき
それがたやすく 難しい・・・
物を見る感覚 どう思うのか どういう風に見るのか
これが表現することの 原点か
それは今まで生きてきた 人生 教育が元となるだろう
でも自己の感性は もっと深い所の アイデンティのようなものが 強く影響してくる
それは 大衆の感性とは 異なる
こうだという断固たる 確信の表現であろう
そこが カメラマンと写真家の 境になる
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